きよせの森総合病院
「慶大小児科同窓会会報 第9号 平成11年(1999年)9月発行」より


   実はこどもは苦手です


慶應義塾大学医学部小児科学教室助手  関口 進一郎
ミュージカル「コーラスライン」の舞台で17人のダンサーのうちの1人、マークが語る。
「『家庭の医学事典』を眺めるのが好きだった。」 自分もそうだった。他の本にはない神秘的な、魅惑的なものを感じていたに違いない。カラーの口絵に「赤ち ゃんの便」とか「はしかの発疹」とかあったのを覚えている。活字嫌いのこどもであったが、「医学全書」は愛読 書だった。

7歳の頃、「ものもらい」ができて近所の武谷病院に連れられていったときのこと。混雑した待合所の片隅に貼ってあったポスター「小児の結膜炎」に目が釘付けとなった。真っ赤に充血した結膜の写真がアップになっている。そのインパクトに圧倒されていると1人の背の高い女医さんに話しかけられた。内容は覚えていないが、結膜炎のことをやさしく説明してくれた。

その人が眼科医で院長の武谷ピニロピであることをあとの診察で知った。
このときはじめて「お医者さま」を憧れた。(武谷ピニロピ先生はロシア生まれで武谷病院の創始者である。病院開設の頃の苦労話は「女医レニアの生涯」という本に詳しい。)

中学時代に伯母が卵巣癌、ついで伯父が白血病で慶応病院に入院し、お見舞いに通った。何度も病室を訪れたはずなのだが「お医者さま」にお会いした記憶はまったくない。覚えているのは看護婦さんの姿だけだ。

高校で出した進路希望は文系のはずだった。ところが伯父と伯母が相次いでなくなったことが影響してかもともとの医学への興味が再び顕れいつの日か突然医学部志望に変わった。かくして医学部を目指し、因縁の慶応に入学、そして卒業した。

学生時代から誰が見ても「内科系」の私は小児科、精神科、眼科の中で迷っていた。最後まで眼科が残ってい たのは幼きころの武谷先生への憧れのためだ。

医療関係の知り合いが全くいない環境で育った自分には判断材料が乏しかった。ポリクリで見たものが必ずし も真の姿ではなかったことを医者になって実感するが、少なくとも私はポリクリのイメージで小児科を選択してし まった。