病医院経営情報誌『GREEN MANAGEMENT』より
中野夕香理のザ・インタビュー
武谷ピニロピ
幸せを感じるのは、
患者さんを診ている時
武谷ピニロピ たけたに ぴにろぴ
中野夕香理
Yukari Nakano
昭和39年東京都生まれ。 63年に東京大学医学部保健学科を卒業。平成5年には同大大学院医学系研究科保健学専攻博士課程を 終了し、同年4月より日本医科大学助手、現在に至る。


女学校時代、友人の死で医学を志す


中野 まず最初に、先生が医学を志した理由からお聞かせください。

武谷 ずいぶん昔の話になりますが、本当は教師になりたかったのです。
 でも、女学校の時に、仲の良かった友だちが結核で死んでしまったのです。大変なショックを 受けましたが、その時、医者になろうと決心しました。
 ただ、家族の反対がすごかった。母などは、ものすごく怒りました。それでも医者になりたいと何日か 頑張ったら、とうとう父が根負けして、許してくれたのです。


中野 やはり、「女が医者になんかなるんじゃない」という感じ だったのでしょうか。

武谷 そうですね。「自転車に乗ってもいけない」とまで言われたものです。 そういう時代でした。だから、私は自転車に乗れなかった。診療所を始めて、往診するのにいちいち 歩いていたのでは辛い。それで一日で覚え、翌日には自転車に乗って往診に行ってました。


無医村で開業 患者が殺到して驚く


中野 診療所を開かれたのはいつごろですか。

武谷 昭和二五年です。

中野 それ以来、ずっとこちら(東京都清瀬市)で地域医療に携わってきた わけですね。でも、なぜこの場所をお選びになったのですか。

武谷 当時、知り合いの先生が、こちらの東京病院(国立療養所東京病院)で 結核手術を手がけていまして、「たまには勉強に来い」と言われて通い出したのがきっかけです。
 でも私は医者のくせに、血を見るのが苦手で、いつも手術を最後まで見ることができない。 肋骨を切るあたりで気が遠くなって・・・。病院から駅まで歩いて二〇分ぐらいだったのですが、 いつも憂鬱な気持ちで帰ったのを覚えています。
 途中、林ばかりで、私は方向音痴なものですから、迷子になって、駅に行くつもりが逆方向に行って しまったこともありました。
 でも、そういう緑の多い環境が大変、気に入っていましたし、当時、研究のためにウサギを飼って いたのですが、清瀬だったら場所もとれるし、えさの青物もたっぷりある。 "ここでやれたらいいなぁ"と、最初は本当に軽い気持ちだったのです。


中野 それで実際に開業してみて、いかがでしたか。

武谷 泥沼になっちゃったんですよ。
 開業初日から、診察時間の前に二三人もの患者さんが列をつくって待っていたぐらいですから、 もうびっくり。


中野 当時、周辺に病院はなかったのですか。

武谷 結核の病院はありましたが、地域の住民の方がかかれるような 身近な病院は一つもなく、無医村の状態でした。患者さんはその後も増え続け、診療科を揃え、 ベッドを増やしてきました。病院となったのは昭和四〇年です。

中野 いろいろな病気、症状の患者さんがいらしたわけですね。

武谷 私の専門は眼科ですが、人間の体というのは、あらゆる部分が 関連していますから、一ヵ所だけを診ればいいというものではありません。
 それで小さいながらも全科を揃えるという方針なんです。そのせいでいつまでも火の車なんですが (笑)。



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