心ウキウキ生き方発見マガジン『evah(エヴァ)』より
日本を愛する外国人たち
あなたの知らない美しき日本
戦後の日本を温かく見守り続ける医者
武谷ピニロピ
「たまたま移り住んだのが日本だった」という武谷ピニロピさん。が、戦争中は外国人ゆえに数々の 苦悩を味わった。にもかかわらず、この国に留まったその理由とは・・・・・・?


東京、清瀬市にある武谷病院。ベッド数百余、職員の数が140名というこの病院をつくり、 現在も院長を努めているのが武谷ピニロピさんだ。78歳にして現役の眼科医である。ピニロピさんが日本にきたのは1927年、8歳のときだ。前年に、知人を頼って福島の会津若松で紳士服店 を開業した父親にや呼び寄せられたのだった。

「当時の日本では、外人なんて珍しくて、私が道を歩くと後にゾロゾロついてくるの。でもね、子供って不思議なもので、顔形が違おうと言葉が通じなかろうと、 すぐに仲良くなれるものなんです。それに、私のなかにも"○○人"という意識がなかったから、 周囲に溶け込むのは早かったんですよ。

というのも、日本に来るまで私はハルビンで過ごしていたんですけど、そこには中国人や日本人、 ロシア人などさまざまな国の人々が暮らしていましてね。そんななかにいたせいか、小さい頃から 『肌の色や風習が違うだけで、人間なんてみな同じ』と思っていたんですよ。」

その後、医者を志して上京。理論物理学者の武谷三男氏に出会い、43年に結婚するが、 この頃からさすがのピニロピさんも、人種の違いに泣かされることになる。

「私が"鬼畜米英"と同じような姿をしているからって、配給のときに『あなたにあげるものは何も ありません!』っていわれてね。しかたないから、道端の葉っぱを拾ってきて食べましたよ。 石をぶつけられたこともありました。くやしくて悲しくて、泣くこともありましたよ。でも、そういうご時世だったんだから、しょうがないんです。だから、 どんなことをされようと、日本から出て行こうなんて、これっぽっちも思いませんでしたね。」


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